共感することが多かった書籍である。
この本の中で言われているのは、子どもと接する場面では、一定のルールを子どもと作り、それを子どもとともに守るということである。
筆者は「子育てのプリンシプル」と言っている。
小学校の教育現場では、これは確実に実施されていると思う。というか、実施したいと努力されている。
例えば、給食の時、食べ終わったら食器は自分で返却しましょう、というルールがある。大人の世界でも、セルフサービスの食堂は、食べた後は自分で始末をする。当たり前である。
しかし、家庭によっては、自分で片付けなくても、食べた食器の後始末が行われてしまう場合があるから、当たり前のように見えても、このセルフサービス制度を皆が実施できると言うのは、多くの労力の上に成り立ったことなのではないだろうか。
小学校一年生の初めての給食の時、担任の教師が、食器の後始末方法を教える。幼稚園などで体験してきた子どもたちは素直に、食器をしまう。次の日も次の日も同じことが行われる。
時には、途中でおしっこに行きたくなり、そこで食器をしまうのを忘れてトイレに行った後、運動場に遊びに行ってしまう子どももいる。
教師はその子を呼び戻しに行き、一緒になって食器をしまわせる。
ある日は、食器をしまっている途中、歯磨きをしている友達を見て、自分も歯磨きに行ってしまう。
教師はその子を呼び戻しに行き、食器をしまわせる。今度は、しまうまでそばで見ている。
またある時は、食器はしまったが、自分の使った箸をそのままに遊びに行ってしまう。
教師はその子を呼び戻しに行き、箸をしまわさせる。
次のある時は、食器はしまったが、自分の使った箸をそのままに遊びに行ってしまう。
教師は、教室に戻ってきた子どもに声をかけて箸をしまわせる。
次もきっと忘れるかもしれない。そう考えた教師は、「ご馳走様」の挨拶の前に、その子に声かけをして、箸をしまわさせる。
こうした延々とした追いかけっこが続けられ、その3ヶ月後、通常のセルフサービス方式が確立するのだ。
これは、幼稚園や子ども園でも同じようなことが繰り返されているはずである。子ども達に関わる公の場で、何度も何度も、一定のルールを守るために、大人が根気よく一緒にルールを守る行動を繰り返されて、そうして、食べた食器の後始末を自分がすると言う行動が定着する。
給食の後始末だけではない。学校生活(幼児教育の場でも)では、こうした育ちのプリンシプルが繰り返されているのだ。
しかし、この賽の河原の石積みのような、徒労に似た行動の繰り返し。
でも、子ども達が将来自立し輝きながら社会で生きていくために、それをするしかないと、私たちはわかっているのだ。その後ろ盾になるのが、この本である。
世の教師が身を削りながら取り組んでいることは間違いではなかった。だが、なんと、苦労の多い、弛まない努力が必要とされていることか。
このことは、もっと語りたいと思わずにはいられないのであった、、、