話す・書くの力は〇〇でつきます

かしこく聡明に

小学校の保護者会で話題になるのは

学校では学期末など懇談会がありますが、どんな話題が出るのでしょうか。

学校生活、友達関係、勉強の理解度などなど。中学校や高校ですと進路のことも話題になると思います。

小学校もそうですけれど、まだ進路についてはそう深刻ではない分、別のことが話題になります。

それは、話せるようになるにはどうしたらいいのでしょう、作文が書けるようになるにはどうしたらいいのでしょう、ということです。

一言で言うと足りないのはコミュニケーションの力

ここで「話せるようになるのには」というのは、的確に表現できるということです。

また、「作文が書けるようになるには」の作文は、「遠足に行きました。お弁当を食べていると蝶々が飛んできました。楽しかったです」と言った作文でなく、ある事象から考えられることはこういうことである、といった論文的な文章のことです。

逆にいうと、場に応じて話せることや、深く考えた文章を書くことができなくなっていることに、保護者の方は危機感を持っているということなのです。

一言で言うと、コミュニケーションの力、表出する力が育っていないということかもしれません。

学習指導要領にも

学校教育の指針となる文部科学省が出している指導要領の「小学校国語」にも、表出の力を高めることが明記されています。

国語科だけに限らず、どの教科でも学んだことを文章に書いたり話したりすることで、より深く理解し、定着させる事も目指されていて、学習というのは、やりっぱなしなのではなく、そこから考えたり表現したりすることが大切なのだなあ、と改めて思ったりします。

とにかく、書いたり話したりするというのは、厳密な意味では、とても難しいということです。

日本で暮らしていれば話すことはできる、と思いがちですが、たとえば指の先を切った子どもがいたとします。指に絆創膏を貼りたくて、教師に絆創膏をもらいたいというとしましょう。

多くの子どもは、「先生、絆創膏」と言うのです。

先生、も絆創膏、も名詞です。

「どうしたの」

「指」

「ああ、指を怪我したのね。だから絆創膏を欲しいのね」

子どもはうなづき、絆創膏を貼ってもらうという感じです。

これを「話す」「会話する」ととらえるか、どうか、というのは一考の余地があるのではないでしょうか。

話せない 書けないの根底には

「まじ」「えぐ」「りょ」

大方の流行りの言葉は短く、それで大体のことが表現できるようになっています。

子どもたちと話していて、「どう思ったの」と尋ねると子どもは「フツウ」と答えます。

嫌だな、と思ったけどまあいいかという気分。特別に何も思わなかった。少し嬉しい気分。

何らかの思いがあるのでしょうか、多くを語る語彙を持たない子どもは「フツウ」と言うのです。

算数の問題をどう考えたか、どう解いたかと尋ねても、「フツウ」と答えます。

いや、なぜここは足し算で、これは割り算にしたのかをお尋ねしているんです。今度、別の問題を解くときの手がかりを持って欲しいから、あえて問うているのですが、その気持ちは、「フツウ」と言う子どもたちには届かないようです。

まあ、問題文を読めば、「リンゴをもらいました」と書かれているので足し算ですし、「3人で分けました」と書かれているので割り算なんですが。そして、そこのところに着目して欲しいからお尋ねをしているのですが、そんなことを言っても、ウザイと思われるだけかもしれません。

でも、「フツウ」と言ってしまえば、そこで思考が止まってしまうではありませんか。

人間の脳は、使えば使うほど発達します。

「フツウ」と答えて、その意図を相手に考えてもらうと言う状況では、脳が育っているとは言えないと思います。

話す、考える、頭を使う

話しましょう、考えましょう。

相手に伝わるように、順番を考えて、とにかく話す。

話す内容をもとうと思えば、その時の周囲の状況、その時の自分の考え、その時の周りの人たちの様子、観察して覚えておかければなりません。

頭を使う、脳を働かせる、とはこう言うことです。

「作文が書けないんです」と相談してくださるお母さんが多いですが、まず話せるようにすること、そして、それを文字にして書いていくこと、そこの連動をなめらかにするしか、方法はないように思います。

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